コストン太郎のスケートボード情報館

スケートボードを愛する男です。日本のスケボーに関する全てを語ります。

スケボーは差別が最も少ないコミュニティの一つ

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世の中には様々な差別があります。

 

人種、性別、方言、髪や肌の色、家庭における経済的なこと。

 

 このように羅列するだけで、差別とは本当にくだらない事柄だと再認識させられますね。

 

 もちろん昔のように、差別が公の場でまかり通るなんていうことは随分と減りましたが、それでも公ではない場面、つまり地域や学校、職場等それぞれのコミュニティで起こるような小さな差別は未だにあるような気がします。

 

 あくまで私が経験してきた人生を語ると、スケーター界隈というものは差別」というものが非常に少ないと感じます。

 

 正確には「長いスケート人生を振り返ってきて今そのように感じる」という表現の方がしっくりくるでしょうか。

 

なぜスケボーに差別が少ないのか

 スケボーに差別が少ないのか、それともその他においての差別が多いのか、それはわかりません。

 

 しかし少なくとも私が経験したスケボー界隈のそれは、学校や職場と比べて圧倒的に少なかったのは事実です。私がかつて働いていた職場にも外国人の方がいましたが、そこにおかしな意図を持っているものが少数ながら確かにいました。

 

ではなぜスケボーのコミュニティは差別が少ないのでしょうか。

 

 それはスケボーがすでに「不良」「悪ガキ」と言った差別的なものを受けている場合があり、スケーターはそれでも頑なにスケボーを続けるというちょっと特殊な人種だからです。

 

これは以前から記事において言っていますが、スケーターは確実に特殊な人種です。

 

 街の隅に追いやられ、警察官に職務質問されることも多く、学校では不良扱い。それでも絶対にスケボーという遊びを辞めないのは特殊である証拠です。(もちろんディスっているわけではないですよ 笑)

 

 そのように「すでに端っこに追いやられている人種」が集まるコミュニティに差別などというくだらないことがあるわけないでんすよね。考えてみれば当然です。

 

国境も越えるスケボーのつながり 

 スケボーは不思議なもので、デッキを持っていれば例え海外に行っても誰とでも仲良くなれてしまいます。言葉も瞳の色も違うのに、まったく関係ありません。

 

 アメリカのパークでちょっとトリックを決めると「お前どっから来たんだ?今のクールだな!」なんて声をかけてくれます。

 

 私の国内においての体験談ですが、日本に旅行に来ていたとあるアメリカ人スケーターとたまたまパークで会いその日のうちに意気投合し、「今度アメリカに来いよ!うちに泊まっていけ!」と言われ、私は本当にアメリカに泊まりに行ったことがあります。

 

 スケーターにとって国境は関係なく「あそびに来いよ!」「じゃあ行くわ!」ですからね。隣町じゃないんだから(笑)

 

 これも同じスケボーが好きだという少し特殊な人種同士のつながりがあるからこその体験談であると私は確信しています。

 

 あとはトリックをメイクした時や撮影が上手くいった時の「喜び」や「幸福」でしょうか。メイク時の体中からアドレナリンが湧き出るような何とも言えないあの感情に国境はありませんよね。

 

 「国境」という比較的差別が生まれやすい事柄さえ、スケボーでは逆に「言葉は通じないけどメイクにおける感情は同じ」という親密感をもたらしてくれるのです。

 

まとめ

 スケボー界隈になぜ差別が少ないのか。

 

 それは「スケーターはすでに世間からちょっとズレた特殊な人種」という大前提があり、その特殊な人種が集まるコミュニティであるから、ということになります。

 

 その「世間からちょっとズレた特殊な人種」というスケーターの部分が、私が最も好きなところです。 

 

 

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